平成と共に過ごした多様で充実した時間。
いつもながら私事で恐縮ですが、結婚を機に新たな家庭が始まったのが、昭和も終わろうとしていた1988年、昭和63年4月でした。
横浜市内にある三畳一間の楽しくも独房のような社員寮から、阿佐ヶ谷のオンボロ木賃アパートに引っ越しした翌年に、昭和天皇は崩御されました。狭い六畳間に正座し、皇居に向かって深々と拝礼したことを覚えています。私につられるように女房の頬を伝うひと筋を見た時、この心優しい新妻の将来の姿をどう想像できたでありましょうか。^^
さて、平成という言葉の響きに何となく「安らぎ」を感じ、世の中の自粛ムードも手伝って、我が家の平成も静かにスタート!!
・・・という訳には行かなかったのですねぇ~。
女房方の父が偉大な起業家だったこともあり、私の呑気なサラリーマン生活が一変します。上の写真は私の最後の自由時代。
女房の実家では毎日のように接客が続き、ほぼ深夜にまで及びます。何しろ銀座での接客が勿体ないからと、わざわざ自宅の地下に接客専用スペースを用意している程ですから、家族や社員の負担は想像を絶します。接客といっても一度に10数人規模ですから本格的です。私も微力ながら料理の配膳、接客サービス、後片付けなど、時には指名を受けてカラオケ(ほぼ演歌限定)も披露します。まさにホストです。”>_<”
女房も厨房に入りせっせと裏方業務を続けています。
このような生活が数年ほど続き、その後実父、義父と立て続けに亡くなり、また生活環境は激変します。その頃には私は義父の会社に籍を置いており、いわゆるワンマン経営者だった義父の後継問題と、会社事業の承継を巡って物事が大きく動きます。司令塔の亡き後の組織維持が如何に難しいことか。肌で感じながら、最善策を求めて奔走しました。思えばこの頃が一番必死でしたね。下手したら乗っ取られる可能性もありましたから。
その後、いやがる女房を尻目に私は単身で北海道に移ります。グループ会社の一つに転籍です。一年後に家族も合流し、延べ13年弱を札幌で過ごします。子供たちにとっても女房にとっても、札幌での伸び伸びとした生活は生涯の大きな財産になったことと思います。私にとっても最高に充実した時間でしたが、事業面では結果を残すことが出来ず、悔いを残しながら東京に舞い戻ります。時既に平成も第4コーナーに差し掛かった辺り。
その後無収入の状態が1年ほど続き、更に1年ほどのアルバイト生活を経て、今の不動産・金融資産の運用を営む家業に落ち着きます。
少々自虐的に言えば、私の平成は「虚勢の時代」でした。
自分の資質を大きく超えた環境の中、いかにそれらしく生き抜いていくか。まるで役者を演じているような気持でした。そういう意味では平成の第4コーナーは、身の丈に合ったとても居心地の良い時間でした。個人事務所のような感覚で、誰に気兼ねすることもなく、好きなように過ごさせてもらっています。
新たな時代『令和』は、ほぼ私と同年代の天皇陛下の時代です。私も少しは社会の役に立てる仕事が出来るよう、改めて気合を入れ直したいと思います。
家族、友人に感謝しながら新たな時代を背伸びせず生き抜いてまいります。
(*´з`)